サウナ禁止となった男

サウナ禁止となった男 炭酸泉との出会いで歩み出した「再生」への道

医師の非情な宣告

「できれば、禁煙!アルコールは控えめに、塩分や脂っこい食事も気をつけてくださいね!」予想していた通りの言葉が並んだ。

「それから、サウナは、もうやめてくださいね。厳禁ですよ。」

この言葉は予想外だった!軽い動揺を覚える。

定年後も嘱託で週に三日ほど働き、残りは銭湯通いでサウナを楽しむ。そんな彼にとってサウナは、人生の中で最も大切な「楽しみ」だった。

突然の禁止令。その原因は軽度の脳梗塞。激しい頭痛に襲われ、言葉がうまくしゃべれない。すぐに救急搬送された。幸い処置が早く、命に別状はなかったものの、退院前の医師の宣告に改めて自分の現状を再認識させられた。

「このままでは再発の可能性が高いですからね!」
「…よりによって、サウナ禁止かよ。」
病室の天井を見上げ、澤口はため息をついた。思えば60年間、好き放題に生きてきた。酒もタバコもやめず、仕事帰りにはラーメン大盛り。体重は100キロを超え、「まあ俺は骨太だから」と笑ってごまかしてきた。だが、そのツケは確実に回ってきたのだった。

幸福ゆとの再会

退院して数日後、澤口は久しぶりに「幸福ゆ」の暖簾をくぐった。
90年の歴史を持つ古い銭湯。20年ほど前から常連となり、幾度も足を運んできた場所だ。

蒸気の匂いに包まれる館内、フロントのおかみさんが笑顔で声をかけてくれた。
「おかえりなさい。しばらく見なかったけど、元気にしてた?」

澤口は苦笑しながら、「いやあ、ちょっと倒れちまってさ。サウナ禁止になっちまったんだよ。」と打ち明けた。

常連仲間も驚き、そして湯船で大笑いが起こった。
「お前さん、あの蒸し焼きみたいなのがないと生きてる意味がないんじゃなかったっけ?」

「水風呂だけでもやっとけよ…あ、でもそれも駄目なんだろ?」

「そうなんだよ。何もできやしねぇ。」
澤口は口をとがらせ、子どものように拗ねてみせた。

そのとき、ふと目に入ったのは新設された炭酸泉の看板だった。
ぬるめのお湯が静かに泡を立て、そこだけ柔らかな空気が漂っている。
今まで見向きもしなかった湯船が、不思議と気になった。
「ここなら心臓に負担をかけずに入れますよ。」
フロントでおかみさんがそう勧めてくれたのを思い出した。

炭酸泉の魔法

半信半疑で足を入れると、シュワッと小さな泡が肌を包んだ。じわじわと温かさが広がり、体の芯にしみ込んでいく。熱いサウナのような即効性はないが、静かで緩やかな温もりだった。

「なんだか…じんわり酔っていくみたいだな。」
思わず呟いた。

10分ほど浸かると額にうっすら汗がにじみ、湯上がりには足先までぽかぽか。洗い椅子に腰かけて休んでいると、サウナとは違う「整い感」に包まれた。「サウナほど派手じゃないが、悪くないな…。」
口元が自然と緩んだ。

泡中毒の日々

翌日も、その翌日も。気づけば休館日以外は毎日通うようになった。
「俺も炭酸泉中毒だな。」と笑いながら、湯に身を沈める。

「澤口さん、ちょっと痩せたんじゃない?」
常連の一人にそう言われ、澤口は「いやいや、気のせいだよ」と笑ってごまかした。だが、内心は誇らしかった。実際、ベルト穴がひとつ縮んでいたのだ。

「唐揚げにビールはやめられん」と豪語するが、以前よりは自然とセーブしている。毎日の炭酸泉効果か、体重は少しずつ減り、血圧も下がり、朝の目覚めも良くなっていた。
「サウナ禁止令も悪くなかったかもしれんな。」
そんなことをぼやきながら、隣の客と笑い合う。

店主の心情

おかみと交代でフロントに座る店主は、その様子を見守っていた。
導入した炭酸泉をどう活かすか、どう伝えるか、この1年は試行錯誤の日々だった。文献を読み、他の銭湯を視察し、コンサルに相談もした。それでも新たに導入した「炭酸泉」は本当にお客の役に立つのかと迷いは消えなかった。

だが、澤口さんの変化を目の当たりにして、胸に確信が芽生えた。
「この湯は、人を救う。」

サウナに未練をこぼしていた男が、泡に身を委ね、笑いながら通い続けている。その姿は、炭酸泉が「娯楽」ではなく「療養」として力を発揮している証だった。「禁止から再生へ…まさか澤口さんが“幸福ゆ”の広告塔になってくれるとはな。」
店主は心の中でそうつぶやき、誇らしい気持ちに包まれた。

日常の幸せ

ある日、炭酸泉に浸かりながら澤口は目を閉じた。
泡が肌にまとわり、静かに鼓動が響く。その瞬間、「生きている」という実感が胸に満ちた。

「まあ、死ぬまでにあと何回、この湯に浸かれるかね。」
そんな自虐を口にしつつ、心は穏やかだった。
湯上がりに番台へ向かうと、店主が笑顔で声をかけてきた。
「顔色いいねえ。無理せず、これからも続けなよ。」
「おうよ。生きてるだけで丸儲けだ。」
澤口は照れ隠しのように笑った。

再生の兆し

やがて体重は10キロ以上減っていた。
医師も驚き、「この調子なら再発のリスクも下がりますよ」と太鼓判を押してくれた。

鏡の前で、少し凹んだ腹をさすりながら澤口はにやりと笑った。
「まだまだ俺も捨てたもんじゃないな。次は80キロ台…銭湯通い以外の趣味も探すか。」
フロント前の廊下には常連の笑い声が響く。
サウナがなくても、炭酸泉があれば十分。澤口にとってそれは、ただの湯船ではなく「人生をやり直す場所」になっていた。

結び

この物語は、ある銭湯の日常を直接ヒアリングした実在の話をベースにしています。
銭湯名・登場人物の名称は架空のものですが、「サウナ禁止となった男」は、炭酸泉に出会ったことで「禁止」から「再生」へ歩みを変えた実話です。
銭湯に通う日常は、彼にとって単なる娯楽ではなく、健康を取り戻し、心を癒す「療養」そのものだったようです